JAPAN 1992年4月号 インタビュー
エレファントカシマシ5が出る直前インタビュー
インタビュアーは山崎氏。
このインタビューの時にカメラマンの平間至氏に突然殴りかかった宮本の写真
が上の写真。平間氏の注文にキレたのだ。
山崎氏は冒頭でこう語っている。
「あい対する人と真剣勝負のコミュニケーションを求めて切迫し、その衝動を自由自在にコントロールするにはナイーヴすぎるゆえの自爆なのである。生き急いでいるのだ、この男は」
そしてこうも言っている。
「このアルバムにはそんな宮本はいない」と。
あなたは、この宮本の写真を見てどう思いますか?
ここまでの4枚はいっこうに売れ線になる気配もなく、当時の異端児的存在のまま5枚目のALを作る事になる。これまでの4枚で、宮本の苦悩はAL作成の方法論を考える事も放棄したのかもしれない。プライベートでも「お前の夢を見た」の通り。
出口の見えない未来。押し寄せる孤独。それと対峙しながらもがき苦しむが安易に走る事も自分に許していないし、そうできない不器用さ。彼女を新しく作るとかそういう次元では満足しない魂。それを貫く所が宮本の魅力でもあるわけだが。
生きている実感。結婚して家庭を作り家族のために働く日々も「生きている証」
になるだろう。でも宮本はそこに「逃げる」のを良しとしていない。
寂しくてしょうがないよ。本音だろう。でもそこに行かない。
何故か。そこには宮本の求める本当の「生きている証」がない事を解っているからだ。
だとしても。
もうどうしていいのかもわからない宮本の苦悩が、この妙に明るそうで、でも実は
とても寂しく悲嘆に呻く要素の多いALになっているのだと思う。
浮世や生活が、ある意味怒りの極致と内省の極致のALだとしたら、このALは宮本の言う通り、一聴して明るく響いているように思う楽曲がある。
その象徴曲が「無事なる男」。
パッと聴きがポップに聴こえるシャララも「シャララ シャララ」と歌う声が全然軽やかなんかじゃない。むしろ重い。なんで重いの?
そして通りを超え行く。日本の唱歌の様。歌詞は短歌の如くに孤独を歌う。
ラスト曲「曙光」はブルースのリズムに乗せてうつうつとする日々の中でもどこかで曙光を必ず差し込ませてやるという強い意志が感じられる。これぞエレカシという
曲だと思う。この曲をラストに持って来る所で負けてない。
この次に出るのが「東京の空」。このALはエレカシのこの当時の自在の表現力の全てが凝縮された傑作だ。やりたい事全てやったALだと思うしその評価も高いALである。
「エレファントカシマシ5」はその途中のALだ。どんなに
力を抜こうとしても抜け切らない。山崎氏は「ギラついた宮本はそこにはいない」と言うがその欠片はあちこちにちりばめられている。
一聴何かを放り投げた感がする楽曲が多いように思うがそれは誤りだと思う。
確かにもう苦悩する事にも疲れ果てた感は否めない。無常感がこのALを覆う。
そんな時人は明るく笑おうとするものではないか?
しかし、
このままで諦める宮本ではなかった。
記憶が確かならもうエピックでは最後になると分かっていて作ったALだ。
この東京の空はあらゆる可能性にも挑戦した素晴らしいALになったのは宮本のエレカシの底力だ。起死回生の時は刻々と近づいている。