bridge 2009年6月号を手に入れた。
以前、JAPAN 2009年5月号の「昇れる太陽」発売記念エレカシ3万字インタビューについて書いたが今回は渋谷陽一氏による別の角度からのインタビュー。
山崎氏のJAPANインタビューがメンバー全員に対してだったのに対して今号は宮本一人へのインタビューだ。
JAPANインタビューとは違った、冷静な宮本の昇れる太陽までの胸中が語られている。
「ココロに花を」「明日に向かって走れー月夜の歌」が売れた1997年。それからまたエレカシは低迷期に入る。そして12年。昇れる太陽は見事なセールスを記録するわけだが、12年前のセールスは余り居心地のいいものでは無かった様だ。
特筆するべき点はいくつかある。
エピ期は宮本とバンドの尖った部分を誇張して売るのが事務所の方針だった
まぁ、冷静に考えればそうだったのだろう。それが宮本の言動やパフォーマンスに 影響を与えた事は否めないだろう。ただ、あの時期はあの時期で自らの作るものはポップだと信じていた。これは2009年の時点だから言えることなのだと思う。
エピ期はエピ期ででも確かに宮本は心に怒りと悲しみを抱えたアーティストであった
事に間違いはない。
「ココロに花を」「明日に向かって走れ」が売れた事ーわずか2年でバンドとしての目標を達成してしまったー燃え尽きた宮本
「東京の空」で全ての楽器アレンジを宮本が決めるようになって音楽制作においてバンドメンバーは仲間ではないと発言している。ある意味爆弾発言だ。渋谷氏も驚いている。しかし、エピックとの契約切れで1回バンドでやろうという気運が盛り上がったにも関わらずココロに花をと明日に向かって走れで東京の空の頃の気持ちに戻ってしまったと宮本はいう。それでできたのが佐久間さんと打ち込み作った「愛と夢」
「はじまりは今」だけがメンバーが関わった曲だったんだ。
その後さらに悩みの時期に入った宮本
2004年のCDJではあえて売れた今宵や悲しみの果てを歌わず全部新曲でやり、渋谷氏に怒られた経緯がある。売れた事で働いて働いて使い尽くした宮本には今宵や悲しみの果てをを超えようとの思いがあっても心がついていかなかったのだ。
そこでYANAGIMAN、蔦谷さん、亀田さんらプロデューサー陣と共に制作に入り、
出来上がった昇れる太陽。
その後はJAPANインタビューにあるとおりだ。
率直に言って、本当に宮本は真っ正直な人間だと思う。
それと同時に良くぞ石くん、成ちゃん、トミが宮本を見放さなかったなぁという事だ。敢えて言う。メンバーが宮本を見限らなかったのだと思う。
音楽制作は確かに優れた才能というものが必要で、宮本にはその能力、そしてヴォーカリストとしての実力も群を抜くものがある。
ただこの後に訪れる宮本の病気の事を思えばこの時点で宮本はやはり、本当の事に
気付いていなかったと思う。自分はスーパーマンだと信じていたからだ。
しかしこの4人でなければ今のエレファントカシマシは存在しえないとはっきりと言える。宮本は今、普通にバンドの歌係・作曲係・そして総合司会としての役割、つまりバンドの全部=宮本浩次ではなく、一部として存在しえている事に満足を感じている。バンドは音楽だけでは成立しない。+α バンドの核こそバンドメンバー1人1人とのココロの『絆』なんだとつくづく思う。
この宮本の変化・成長こそエレファントカシマシが来年結成30周年を迎えるに当たり、さらに聴く者たちをワクワクさせてくれる原動力だろう。
あとは思いのままに進んでくれ!!
もう立ち止まる暇はなどないぞ、宮本よ!
乱筆乱文および間違いなどありましたらお詫び致します。
(インタビューより抜粋。 左から右に読んでみてください)